生きた心臓を「京」に再現。
心臓病の新たな治療に貢献する。心臓シミュレータ「UT-Heart」
生きた心臓を「京」に再現。
心臓病の新たな治療に貢献する。心臓シミュレータ「UT-Heart」
大学院は数学科。コンピュータメーカーに就職し、ハードウェア設計を担当。その後、心臓シミュレーションに関わるようになり、転職。専門は数値解析、計算生物学。
心臓は生きている限り働き続ける高性能で精密な「血液ポンプ」です。それがどのように動いているのか、ご存知ですか。
心臓には、ペースメーカーの役割をする細胞があり、約1秒に1回規則正しく電気刺激を発しています。それが心臓を形作る筋肉である心筋全体に伝わり、心筋が収縮します。これで心臓が1回動きます。これを拍動といいます。この拍動によって全身に血液が送り込まれます。
ではこの心筋はどのようにして収縮するのでしょうか。心筋は心筋細胞(筋線維)の束から構成されています。この筋線維はさらにミオシンとアクチンという細長いタンパク分子が集まった筋原線維からなりたっています。このミオシンとアクチンこそ筋肉が収縮するメカニズムの主役です。タンパク分子の大きさは、数nm(ナノメートル。1nmは10億分の1メートル)。小さなタンパク分子の収縮が心臓の力強い拍動を生んでいるのです。
さて、心臓シミュレータ「UT-Heart」※1とはそもそもどのようなものなのでしょうか。その開発に携わる東京大学の鷲尾巧研究員は次のように説明します。
「現在、京コンピュータ上に実現されているUT-Heartは、細胞内部のミオシン・アクチン分子の動きに始まり、ミオシン・アクチンによって構成される筋線維の伸縮、臓器としての心臓の収縮と弛緩、全身に血液を送り出すメカニズム、さらには心臓の活動の結果生まれる血圧や心電図まで、すべてを数値表現した“仮想の心臓”として構成されています」
心臓シミュレータといってもコンピュータグラフィックスで描写するのではありません。心筋を構成するミオシン、アクチンというミクロレベルの動きから再現しているのです。
「UT-Heartの特徴は、マルチスケールとマルチフィジックスを同時に実現したこと」と、鷲尾さんは強調します【図1】。
「まずマルチフィジックスとは、生化学反応、電気的現象、力学的現象という複数の物理現象を扱うということです。さらに、これらの物理現象がタンパク分子(~数nm)から細胞(~100µm)、組織(~mm)、臓器(~cm)をへて生体へとミクロからマクロにわたって連続的に発現する。これがマルチスケールです」。
心臓にあるペースメーカー細胞から電気刺激が心筋に伝わると筋線維内のカルシウムイオン濃度が高まります。そこでカルシウムイオンとアクチン分子が結合すると、ミオシンヘッド※2と呼ばれるミオシンの先端部分がアクチンと結合しやすくなり、ミオシンヘッドが伸びてアクチンと結合します。このときミオシンヘッドが動き、アクチンを動かします【図2】。この動きが筋線維レベルで一斉におこると心筋が収縮し、心臓が拍動します。
鷲尾さんは、「京コンピュータが使えるようになって、これらのミクロレベルでの個々のプロセスをすべて数値モデルで表現できるようになり、本物の心臓に近いシミュレーションが可能になった」と、研究の前進を振り返ります。
※1 UT-Heart:東京大学が富士通(株)と共同で開発している心臓シミュレータの名称。
UTはUniversity of Tokyoの意。東京大学久田・杉浦研究室のサイトで心臓シミュレータの動きを見ることができる。
http://www.sml.k.u-tokyo.ac.jp/index.html
※2 ミオシンヘッド:ミオシン分子の先端部。これがアクチン分子と結合して一定の角度に動き、運動が発生する。
「京」以前は、コンピュータの計算能力に限界があるため、分子レベルからのシミュレーションが現実的には不可能でした。それが「京」の登場によって一挙に解決しました。
従来はミオシンとアクチンの動きを一つひとつ計算できないため、複数の分子の動きをまとめて平均化し、計算していました。しかしその方法ではどうしても心臓の実際の動きが再現できません。ところが「京」では単体の分子レベルから再現し、それらが複数集まったときに単体の分子同士が相互作用し、互いに影響しあってどのように振舞うかも再現できるようになりました。するとより自然な心臓の拍動が実現できたのです。
それは膨大な計算の積み重ねです。
「まず心臓を5万個の4面体からなるメッシュ(計算する際のまとまり)に分割します。その5万個のメッシュ一つひとつに64個の心筋細胞を埋め込みます。さらに心筋細胞の一つひとつに30個のミオシンとアクチンのペアを埋め込みます。分子レベルからの計算とは、ミオシンとアクチンの動きの計算を心臓全体にわたって同時に一挙に行うことなのです。ちなみに心臓を1拍動かすのに、従来のスーパーコンピュータではおおよそ数日かかっていましたが、京コンピュータでは能力の10%だけを使っても1時間で計算できるようになりました。しかし、実はこれは未知の現象を大雑把に探索するための簡易モデルでの計算に過ぎません。この探索的研究の結果、次の研究の方向が定まれば、今度は心臓を5万個から60万個のメッシュへとさらに細かく分割し、また細胞のモデルもより実際の構造を反映するように自由度を増やして、本格的なシミュレーションを行います。ここで京コンピュータの本当の能力が発揮されます」。【図3】
心臓シミュレータは、文部科学省により平成24年8月、「京」の優先課題に選定され、重点的に「京」を使えるようになりました。そこから生み出される画期的な成果が期待されています。 「心臓シミュレータの将来イメージは、患者一人ひとりの心臓のCTデータを心臓シミュレータに入力し、その人の心臓を再現。心臓病のリスク予測から、最適治療法の導出など、さまざまな解決策を導き出すこと【図4】」と、鷲尾さんはその将来像を説明します。
心臓シミュレータはすでに幾つかの場面で具体的な研究成果につながり始めています。
「たとえば肥大型心筋症※3という病気があります。この病気の人は遺伝子レベルでミオシンの異常があることがわかっていますが、それがどのように病気と関連するのかが不明でした。そこで心臓シミュレータでミオシンの動きからシミュレーションすることによって発症のメカニズムの解明に挑戦しています」。
また不整脈の人が突然死を防ぐために利用する装置として「植え込み型除細動装置(ICD)※4」があります。電極を心臓のどこに埋め込んだら最適なのか、また最適な電圧は何ボルトなのかなど決定するための研究も同僚の岡田講師※5を中心にすすんでいます。 「さらに将来的には、心臓病の薬の効果をシミュレーションすることで、新薬の開発にも活用したい」と、鷲尾さんは夢を膨らませます。
※3 肥大型心筋症:主に心筋肥大による左心室の拡張障害。原因としてミオシンに関わる遺伝子異常が報告されている。
※4 植え込み型除細動装置(ICD):体内植え込み型の除細動装置。心臓の異常を自動的に検知し、大きな電流を流すことによって心臓を正常な動きに戻す。
※5 岡田 純一 東京大学大学院新領域創成科学研究科 特任講師。心臓シミュレータの医療への実用化に関する研究を行っている。
2012年11月30日発行