ファミレスで仕事をしていたら、隣の席の大学生たちが試験勉強に勤しんでいた。やけにうるさい。仕事にならないので、なんとはなしに彼らの話に耳を傾けていたら、どうやら、数学が得意な学生が講師役となり、経済学の試験に向けて特訓をしているらしい。
実をいえば、私の仕事は、まさにこの原稿を書くことであり、ちょうど、金融・経済と「計算」がお題だったりする(なんたる偶然)。そこで、冷え切ったコーヒーを飲みながら、彼らの話を詳しく聞くことにした。
「いいか、おまえら、これはもはや経済学などとは思うな。これは数学なんだ。経済学の試験じゃなくて、数学なんだぞ、そこが肝心だ」
「でもさ、ラグなんとかって全然わからないんだけど〜」
「ラグランジアンだよ、ラグランジアン。フランスの物理学者で、マリー・アントワネットの家庭教師だった人物だ」
「だから、なんで物理学者の名前が経済学の教科書に出てくるのかがわかんないの〜」
「最初に言っただろ。現代経済学は、もう数学なんだってば。だから、物理学を学ぶのと同じ方法になってんだよ。いい加減、頭を切り換えろよ」
ふう、正確には、ラグランジアンは「ラグランジュさんの関数」という意味で、本人の苗字は「ラングランジュ」だけれど、まあ、この講師君の言っていることはおおむね正しい。いまや、金融も経済も、数学抜きには語れない時代になっていて、経済学部の学生も、物理学科や天文学科の学生と同じ数学を学ばなくてはいけなくなってきているのだ。
ラグランジュは、ニュートン力学を数学的に洗練された形で書き直した。ラグランジアンというのは、「運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの差」のことであり、それをラグランジュ方程式に挿入してやると、あーら不思議、ニュートンの方程式が出現する。このラグランジュ方式の力学は、ニュートン方式よりもはるかに応用がカンタンで、天体力学にも流体力学にもアインシュタイン方程式にも素粒子の方程式でも、広く使われている。
応用しやすいということで、当然のことながら、欧米の数学好きの経済学者が、こぞってラグランジアンを使い始め、ノーベル経済学賞なども受賞して、末端の経済学徒まで、教科書を開くとしょっぱなにラグランジアンが出てくるようになってしまった。
それにしても、なぜ、ラグランジアンが経済学に役立つのだろう? 実は、ラグランジアンは「コスト」と深く関係している。物理学ではコストといえばエネルギーなわけだが、経済学では「費用」ということになる。そして、ラグランジュが考えた方程式は、「総コストを最小にする」という意味を持っている。うーん、なるほど、経済学にもすぐに使えそうではないか。
実際、日本銀行が唱えているインフレ・ターゲットにしても、その根底には「動的マクロ均衡理論」という難しげな名前の理論があり、この理論は2004年のノーベル経済学賞に輝いている。これを理解するためにはラグランジアンから始めないとダメなのだ(汗)。
ともあれ、いまや、金融も経済も、とことん数学化しているわけだが、それは、昔のように紙と鉛筆でやる数学ではない。金融や経済の動きを数式に落として、それから、(スーパー)コンピュータを駆使して計算シミュレーションをおこなうのである。
学問の話とは別に、実際に金儲けをしているヘッジファンドの話も興味深い。たとえばツー・シグマという、数学者が運営しているヘッジファンド。数学オリンピックで銀メダルを取ったジョン・オーバーデックとデビッド・シーゲルは、ビッグデータを機械学習で分析して、驚異的な運用実績をあげている。
750TB(テラバイト)のメモリー。7万5000個のCPU。1万種を超えるデータソースを解析。同業他社よりも優れた数学・計算分析能力により、ツー・シグマは、割高な手数料を取るにもかかわらず、驚異的な成長を続けている。金融の世界も、バリバリの数学者でないと金儲けができない時代に突入しつつあるのだ。
私はもともと法学を勉強していて、もちろん、経済学の授業もたくさん履修したわけだが、元プログラマーでもあるし、物理学も修めているので、そろそろヘッジファンドを立ち上げてみるかな……いや、もちろん冗談だが、経済数学のわかりやすい教科書を書いてもいいかもしれない、とは思う。
たかが計算、されど計算。大変な時代になってきたものですねぇ。あ、そうそう、ファミレスのキミたち、どうか、試験、がんばってね〜。